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「はあ、はあ」
房一はむつつりとしたまゝ答へた。
当時の三百円は大金たいきんだったでしょう。少くとも田舎大工いなかだいくの半之丞には大金だったのに違いありません。半之丞はこの金を握るが早いか、腕時計うでどけいを買ったり、背広せびろを拵こしらえたり、「青ペン」のお松まつと「お」の字町へ行ったり、たちまち豪奢ごうしゃを極きわめ出しました。「青ペン」と言うのは亜鉛とたん屋根に青ペンキを塗った達磨茶屋だるまぢゃやです。当時は今ほど東京風にならず、軒のきには糸瓜へちまなども下っていたそうですから、女も皆田舎いなかじみていたことでしょう。が、お松は「青ペン」でもとにかく第一の美人になっていました。もっともどのくらいの美人だったか、それはわたしにはわかりません。ただ鮨屋すしやに鰻屋うなぎやを兼ねた「お」の字亭のお上かみの話によれば、色の浅黒い、髪の毛の縮ちぢれた、小がらな女だったと言うことです。
徳次は人の好い、いかにもさう信じこんだやうな眼で二人を眺めた。
房一は急いで膿盆をひきよせた。
「ねえ!」
「これはどこに置きますかね、この漬物桶は。――はい、はい。どつこいしよ、と」
半ば感心し、半ば疑はしさうに、彼は指を自分の眼に向けてみた。
「なに?競馬のこと?」
間もなく房一が帰つて来たらしい。
と云ったそうだ。
「こゝの消防演習をやつたのだ。そんなに騒ぐことはない」
房一は自転車を降りて押しながら歩いた。しばらく行くと貯水池が見えて来た。あたりは松林で、その抜き立つた幹の間から水面が光つていた。向ふ側は半ば葉を落した雑木山だつた。いたる所が透いて、明あかるく、からりとした空気の中を時々つんと強い山の匂ひがした。